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Dialogue : about/ from HS’ curatorial practice 3
Mizuki Endo <ー> Yuka Tokuyama



21世紀に生きる私たちが、ゼーマンにどのような意義を見出すことができるのか?
徳山由香から遠藤水城への対話形式のインタビュー。(2007年3月)
その2よりつづく)


アート、革命、ユートピア

YT : ゼーマンの名を、初めてそして最も大きくした展覧会として1969年「態度が形になるとき」があります。ご存じの通りこの展覧会の前年はヨーロッパで学生による革命運動が巻き起こった1968年です。ゼーマン自身も「態度」展を語る際、当時の革命の熱気に盛んに触れつつ、ヨーロッパ、アメリカから40数名ものコンセプチュアル・アーティスト達がベルンに集まり、美術館でサイトスペシフィックな展示−ボイスが油脂を壁に塗りつけたり、ローレンス・ウィナーが壁を削ったり、マイケル・ハイザーが歩道に穴を開けたり−を行ったことについて「これは革命であった」という言い方をよくしています。
ゼーマンの革命志向は、90年代後半に経済開放後の中国の作家に強い関心を向けたことによっても知られているのですが、一方で社会革命と芸術とは切り離して考えていたようです。以下引用します。

「当時(60年代末)アーティスト達は政治的な参加を盛んに求められていました。しかしながら、芸術の大きな政治的意義は、つまるところ、壊れやすいものを創造するという個人に常に集約されるのです。そしてこれらの壊れやすいものを守るためにあるのが、特権的な場所としての美術館なのです。」

要約するなら、ゼーマンは、政治における集団的意志よりもむしろ個人の意志、態度を尊重し、集団の記憶を保持するという役割を担う美術館という公的権威に、アーティスト個人にしか還元できない態度を芸術的創造として認める機能を求めた、といえるでしょう。

また、69年「態度」展は、遠藤さんのおっしゃる「芸術の緊張と社会の緊張との共鳴の瞬間」と共振する部分があるかもしれません。ゼーマンにとって、そして時代を共有した同世代あるいは追体験した後の世代にとって、時代の情勢、革命の熱気が芸術のあり方、見方を変えたということは、認められるでしょう。それが、実際の展覧会を見た人間が少ないにもかかわらず、あたかも現代美術創世記のように伝説化し、語り継がれる理由かもしれません。

話を拡げれば、実際の社会革命には繋がりませんが、ゼーマンにとってユートピアは長年のテーマで、また彼は政治的にはアナーキストであったそうです。彼は、Tessinというスイス南部、イタリアとの国境に近い山里に住み、かつアーカイヴを持っていたのですが、この地方には19世紀末から20世紀初めにかけて、ユートピア主義者が集まって、まさに理想郷を築こうとしていたようで、このことを扱った展覧会「Monte Verita(真実の山)」を1978年に開いてから、晩年までこの地方でここにまつわる展覧会をしています。

こうしたゼーマンのテッサンでの活動は、まだ私自身も未着手でこれ以上お話を続けられないのが残念ですが、芸術とユートピアの関係は、近年の日本におけるアートNPOの活動や、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト、リクリット・ティラヴァニャ達のランドプロジェクト等とも引き付けて考えることができ、これからじっくり考えていきたいテーマです。
また遠藤さんからもその辺りについてご意見をうかがいたいと思いますが、またの機会を楽しみしつつ、今回はこの辺りで終えておきたいと思います。ありがとうございました。

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アート、ユートピア、偏在するコミュニティへ
–あとがきにかえて

私の個人的な経験をお話しするなら、私は、ハラルド・ゼーマンに代表されるような、美術館や国際展での美しい「展覧会」に魅了され、こうした視覚体験に自ら育まれながらも、それと同時に、例えば遠藤さんがつくっているような「若者達が集まって怪しいことをしている空間」、そこからどのようなものが生成されるのかということに強く惹かれ、刺激を受けてきました。

こうした二つの方向性は、ともすれば「美術館・インスティテューション」対「オルタナティヴ」といった二項対立に陥りがちなのですが、ゼーマン研究や、遠藤さんとの対話を通じて、キュレーターの"内側からの"ディレクションに目を向けたところ、より複雑な様相が見えてきました。

その様相とは、制度の問題として一括りできるものではなく、キュレーターの個性による多様性というものでもなく、キュレーター自身の中でも錯綜し、動きながら、それぞれの状況によって、そして制度との関係によって、異なる形で現れ出るものでもあるのだと、理解できるようになりました。
そうした自身の中の揺れ動きを誠実に受け止めつつ、現実と折り合いながら、理想を実現する柔軟さが、キュレーターには必要なのかもしれません。それはきっと、「キュレーターとはこうあるべき」といった教条的な理念とは対極にある態度であり、だからこそその行為は、「実践」なのではないでしょうか。


私自身の「実践」について語るなら、大阪、日本での活動、この地と関わり続けることはなにか大きな意味を持っているように思います。それは、風土や歴史、文化、環境に支えられつつ、意志と希望を共有する人々との繋がり、そのなかからアートの土壌を「耕す」作業であると思います。遠藤さんの言葉を借りるなら、「その地域と一生つきあうという覚悟」です。

単純化に過ぎるかもしれませんが、ゼーマンにとってのテッサン、スイスと、遠藤さんにとっての福岡、アジアと同様、自分自身のローカルコンテクストとの関わりは、つまるところ、一人の人間が、同時性をもって世界に対峙するときに必要な根をはるための土壌なのではないでしょうか。

その土壌を耕すために正面から状況と向かい合い、着実にアートを実践する人々と会って話を聞き、シンポジウムやフォーラムを開いたりすることで、彼らの息吹をできるだけたくさんの人と共有し、問題意識を拡張したいと思っています。

作品をつくらないまでも、展覧会をオーガナイズしないまでも、こうした活動を仮に芸術活動と呼べるなら–社会活動ではないのです–、精神的なレベルでのユートピアづくり、それも特定の地域・集団に限定されるものではなく、偏在的なコミュニティをつくろうとしているような、そのような希望を抱いています。偏在的であることによって、常に新しい人との出会いの可能性を求めて。

遠藤水城さんと一緒に始めた「キュレーションのハードコア」というフォーラムのシリーズは、そうした実践のひとつです。この対話を深く真摯に受け止めてくださった遠藤さんに感謝したいと思います。そして、私たちの対話をこれから共有していただけるすべての皆さんにも、ありがとう。

2008年1月

徳山由香


 

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